« ユニバーサルオイルキャッチタンク再販開始 | メイン | TMR-MJN/TMR41キャブレター用DSFとアルミファンネル受注開始 »

2021年2月11日 (木)

ヨシムラヒストリー 13紹介!

Hpj_top_13b

広報課/石橋です。

「ヨシムラの歴史」を広くアーカイブとして残し伝える目的として
バイクブロスWEBとの企画「ヨシムラヒストリー」ですが、
「第13回」が公開されましたので紹介いたします。

前回の【ヨシムラヒストリー12】は
「ファミリー総出で勝ち取ったデイトナスーパーバイク初優勝」と題したエピソードでした。
1978年デイトナ・スーパーバイクでいよいよ集合管が解禁となり、
ヨシムラは4-1集合管を装着したGS1000、Z1、GS750/944の3台をエントリー。
POP吉村の3人の息子たち、長男・吉村不二雄、森脇護(現モリワキエンジニアリング社長)、
加藤昇平(加藤陽平監督の父)がデイトナで揃うことになリました。
デイトナ・スーパーバイク決勝は、ポールポジションがZ1のW・クーリー、
2番グリッドがGS750/944の加藤昇平、
一方、デビュー戦のGS1000のS・マクラフリンは予選レースで大きなトラブルに見舞われ、
決勝レースは最後列34番グリットからのスタートになリました。
だが、そこからGS1000の怒涛の追い上げが始まる・・・!

今回の【ヨシムラヒストリー13】
「鈴鹿8耐優勝!に隠れた幾つかのサイドストーリー」と題したエピソードです。
https://www.bikebros.co.jp/vb/sports/sfeat/20210204_yh13/

1977年秋、POPと不二雄は日本で開催される8時間耐久レースの噂を耳にしました。
1964年にMFJ鈴鹿18時間耐久レースで優勝していたPOPは、鈴鹿での耐久レースには
特別な思いがあり、GS1000で勝負することを決意。
AMAライダー(W.クーリー/M.ボールドウィン)を率いての凱旋参戦だった。
事前テストでは好調だったGS1000が、フリー走行になるとクラッチが壊れ続けるトラブルが発生。
何とか対策部品を作り、すべての問題が解決かと思われたが・・・。

1978年7月30日(日)午前11時30分、ついに第一回の鈴鹿8時間耐久レースの火蓋が切って落とされた。


ヨシムラの原点。
POP YOSHIMURAこと吉村秀雄、「ヨシムラ」の波瀾万丈のヒストリーをご覧ください。
長期連載(不定期)となりますので、公開情報は随時お伝えします。
======================================
【ヨシムラヒストリー バックナンバー】
https://www.yoshimura-jp.com/fan/bb-pr